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裁判・司法とシネマ(6)戦場のメリークリスマス

 今回は、クリスマスシーズンということで「戦場のメリークリスマス」を取り上げたいと思います(今回のコラムは、映画を観ていないとほとんど理解できないと思います。私の好きな映画のベスト3に入る名作ですので、ぜひご覧いただければと思います。)。

クリスマスツリー イメージ写真 「戦場のメリークリスマス」(大島渚監督)は、主演の坂本龍一、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしといった奇抜なキャスティングやデヴィッド・ボウイ演じるセリアズと坂本龍一の演じるヨノイ大尉とのキスシーンや美しいテーマソングなどが話題を呼んだ作品ですが、作品の重要なモチーフとして「裁判」が取り上げられています。

 映画は、セリアズが日本の軍事裁判所で裁かれるシーンから始まります。日本軍に拘束された英国軍人のセリアズは、国際法上受けるべき捕虜としての待遇を受けず、弁護人による弁護も受ける機会も与えられることなく裁かれます。陪席裁判官として法壇に立つヨノイ大尉は、「彼の行為は、正当な交戦行為であったと考える余地があるのでは?」と疑問を呈しますが、日本軍人の裁判長はセリアズの弁解をすべて記録から削除するよう命じ、裁判は終了します。このシーンは、戦争下の軍事裁判がいかに国家の都合で捻じ曲げられ、真実の発見や正義と程遠い茶番であるかを示しています。

 この冒頭の裁判シーンに対応するのがラストシーンのハラ軍曹(ビートたけし)とローレンスとの対話です。日本の敗戦によって、ハラ軍曹は戦勝国による軍事裁判でこの対話の翌朝に、BC級戦犯として処刑されることが二人の会話から読み取れます。
 ハラ軍曹はその粗野な言動にもかかわらず軍規には忠実な軍人であったことから、本来処刑されるべき人物ではなく、冒頭のセリアズ同様、まともな裁判による処刑ではないことが暗示されています(実際にもBC級戦犯の処刑については不当な裁判によって処刑された者も多かったとされています)。
 戦時において法廷で重要なのは、真実ではなく、力による優劣であること、裁判や法律といったもっとも理性的でなければならないはずの制度が戦争の狂気の中で、崩壊し歪んでいくことが、冒頭のセリアズとラストのハラ軍曹をめぐる裁判で対称的に描かれています。

 このような冒頭・ラストシーンと対比されているのが中盤のシーンであるといえます。
 捕虜施設において無線機を隠匿所持していたとしてローレンスが冤罪で処刑されそうになったときに、真犯人を発見し、職権でローレンスを釈放したハラ軍曹は、心から嬉しそうに「メリークリスマス、Mr.ローレンス!」と酔いに任せて叫びます。「敵国人であっても無実の者を処刑したくない」というハラ軍曹の想いが、ビートたけしの素人くさい演技で印象的に描きだされる名シーンです。
 この「メリークリスマス、Mr.ローレンス!」が処刑前夜のハラ軍曹の別れの言葉としてラストシーンで再度描かれるのは、「裁判」や「法律」「正義」といった、ときの権力の都合でどうにでもなってしまう茶番やお題目ではなく、その背後にあるはずの/あるべき「人間としての感性」が問題なのだ、というこの映画の主題を示しています。
セリアズがヨノイ大尉にキスをするシーンも、同性愛的な側面が議論されていますが、むしろ性別を超えた、セリアズのヨノイに向けた「人間としての感性を取り戻せ」というメッセージの表現であったと捉えることができます。ヨノイ大尉への冒涜行為として、処刑されたセリアズに対し、ヨノイが髪を剃って供えるシーンは、ヨノイが、軍人や敵国人同士という立場を離れて、自分の人間性を回復してくれたセリアズに対するひとりの人間としての最上の礼を尽くすシーンであると考えられます。

 戦争は、「敵・味方」「善・悪」「こちら・あちら」といった極端な思考に人を導き、人間としてのあたりまえの感性を麻痺させていきます。「戦場のメリークリスマス」はそのことの怖さや深刻さを描き、「我々は戦争という狂気の中ではたして人間でありえるか」を描いた作品でした。「戦場のメリークリスマス」にはタイトルとは裏腹に、一切戦闘シーンが描かれていません。戦闘シーンを描くことよりも、捕虜施設内での小さなドラマを切り取ることで、この映画は、「戦争」について深い示唆を与える名作として、国際的にも高い評価を受けたのでした。

(一由)