今でこそ、「●●博士」は溢れており、それほど珍しいものではありませんが、当時の博士号は極めて顕著な業績をあげた学者にしか授与されず、その権威や名誉は現在とは比較にならないものでした。現在は死語である「末は博士か大臣か」という言葉が、実感を伴っていた時代のことです。
それだけに、博士号を辞退した漱石の対応は、世間に驚きをもって迎えられました。
政府から与えられる最高の栄誉を拒否するなどおかしいとの批判もあったようです。漱石と文部省当局との間では、博士号の根拠となる「学位令」の解釈をめぐる応酬もなされていました。当時の学位令(いわゆる明治31年学位令)では、以下のとおりとなっていました。
第二条 学位ハ文部大臣ニ於テ左ニ掲クル者ニ之ヲ授ク
一 帝国大学大学院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者又ハ論文ヲ提出シテ学位ヲ請求シ
帝国大学分科大学教授会ニ於テ之ト同等以上ノ学力アリト認メタル者
二 博士会ニ於テ学位ヲ授クヘキ学力アリト認メタル者
帝国大学分科大学教授ニハ当該帝国大学総長ノ推薦ニ依リ文部大臣ニ於テ学位ヲ授
クルコトヲ得
第2条の文言を素直に読むと、博士号を「授く」とあるので、当然その授けられる側
の人が、博士号を辞退することはできるように解釈できます。漱石も、そのように学位令を解釈し、辞退したのでした。しかし、文部大臣が授けるありがたい博士号を、辞退するなどということは明治政府の権威を侵すものとして許容できなかったのでしょう、政府は「博士号を辞退することはできない」との解釈をとり、辞退を撤回するように漱石に迫ったのでした。そもそも、学位令を制定した当時には、博士号をほしがる人はいても、博士号を辞退することを希望する人など想定していなかったのかもしれません。
学位令の解釈としては、漱石の解釈が常識的でもっともでした。漱石は、強権的な明治政府に対し、次のように述べて、怒りを露わにします。「学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲ここに言明致します。」「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆らって、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。」
ところで、漱石はなぜ、博士号を辞退したのでしょうか。漱石自身がこの辞退問題について触れた「博士問題の成行」を読むと、その理由が述べられています。
「博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。」
日露戦争の勝利にうかれ、夜郎自大になっていく日本を一言「滅びるね」と看破した
漱石は、最後まで「坊ちゃん」のような素朴で健全な反骨精神を持っていた人でした。
(一由)