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漱石をめぐる2、3のこと(上)

 夏目漱石の没後100年・生誕150年を迎え、2016年12月から『定本漱石全集』(岩波書店)が刊行され、朝日新聞で夏目漱石の新聞小説が連載されるなど(漱石は朝日新聞の社員として小説を書いていたのです。ご存じでしたか?)漱石に注目が集まっています。

 私は、昭和50年代に刊行された菊判の「漱石全集」を古本で入手して持っていますが、読む度に新しい発見があり、古さを感じさせません。私が好きな漱石の小説は、「それから」と「行人」ですが、「現代日本の開化」「私の個人主義」といった講演録や「変な音」「文鳥」といった随筆も何度読んでも飽きないおもしろさがあります。

 今回は、法律事務所らしく、漱石と法律にまつわるエピソードをご紹介したいと思いますが、その一つに著作権の問題があります。漱石は、1916年に亡くなっており、当時の著作権に関する法律では文芸作品等の著作権は作者の死後30年と定められていました。つまり、漱石の作品の著作権は、1946年に切れてしまうわけですが、このときに漱石の子孫が、著作権切れを見越して、「こころ」「三四郎」や「漱石全集」といった漱石の作品等について、商標権の出願を行いました。商標権とは、「事業者が、自己の取り扱う商品・サービスを他人(他社)のものと区別するために使用するマーク(識別標識)」ですが、商標として登録されると他人が商標使用料を支払わずに使用することはできなくなります。つまり、著作権がダメなら「漱石全集」「漱石作品集」「夏目漱石小説集」といった予想される本のタイトルを網羅的に商標登録して、商標権で守ろうという発想です。

 この問題をめぐって、法律家だけでなく、漱石の弟子や関係者、メディア、出版社を巻き込む大議論が巻き起こり、結局、特許庁は、商標権の出願を却下したのでした。このような商標権の出願を認めてしまえば、著作権の消滅の趣旨が事実上骨抜きになってしまいますから、却下は妥当な判断でした。その後、漱石の著作権、商標権をめぐるごたごたの影響もあり、著作権の保護期間は50年間に延長されました。

 現在はもちろん漱石作品の著作権はフリーですので、電子書籍の「漱石全作品122作品→1冊」200円、などと手軽に、安価に漱石の作品を楽しむことができるようになっています。しかし、実用書ならいざ知らず、敬愛する作家の本はきちんとそれなりの対価を払って読みたい、そんな文化もあってもいいのかもしれません。全集の味わいのある装幀や活字を楽しみながら、ゆっくり頁をめくっていると、漱石の声が聞こえてくるような気がしてくるのです。

(一由)