佐藤芳嗣弁護士が今年2月18日に亡くなった。73歳だった。
佐藤さんは私より5歳下で、1979年4月に上田市に法律事務所を開設し、誠実な人柄と強い正義感と基本的人権への熱い思いを備えた天性の弁護士だった。
1977年10月、5遺族5患者が原告となった長野じん肺訴訟が始まった。被告は石綿会社、その親会社、国の3者。わが国で国も被告に据えた初めての石綿じん肺訴訟だった。論点は多数に上り、弁護団の任務は過重だった。
そんな折り、開業したばかりの佐藤さんは進んで弁護団に加わってくれた。そして、被害回復のためにはどうしても必要な親会社責任論の担当となった。法廷はもとより弁護団会議、合宿などすべての活動に上田から手弁当で参加してくれた。
1986年6月、一部勝訴判決がなされ、これを足がかりに親会社に不足額を出させ全面解決に至った。佐藤さんの果たした役割の大きさを私は忘れようがない。
佐藤さんは弁護士会の活動にも熱意を持って取り組んだ。私が弁護士会会長を勤めた翌年会長に就任し、信州大学にロースクール設置する道筋を付けた。
事件でも会務でも佐藤さんと私は信頼し合ってこれた。
佐藤さんは弁護士を天職として東信の地で人権と平和のために獅子奮迅の活動をした。
その業績は2022年1月に出版された「信州上田で弁護士業-人権擁護と平和運動の記録」という佐藤さん自身の371ページに及ぶ著作に詳しく記されている。
一方で佐藤さんは、2017年秋から悪性リンパ腫を患い壮絶な闘病生活を送った。その精神力の強さは並のものではない。これも佐藤さんは「がん闘病記 リンパ腫」の小冊子にまとめた。2021年12月に3回目の寛解をしたと記されていたので、私は心の底か安堵した。
そして「信州安保法制違憲訴訟」の弁護団長として、また、秩父困民党の菊池寛平の物語を執筆者するとの活躍を信じていた。
無念であるが、佐藤さんの弁護士活動と一人の人間としての闘病生活に思いを至しながら、もう少し生き長らえたいと思う。
武田