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民衆裁判による誤判 ~ソクラテスの弁明~
「あらゆる西洋哲学は、プラトンの著作に対する脚注に過ぎない」(ホワイトヘッド)といわれている哲学の源流プラトンは、その師であったソクラテスを終生尊敬し、その著作の主役としてソクラテスを何度も登場させています。
ソクラテスは、紀元前400年ころにギリシャのアテナイ(アテネ)で活躍した哲学者であり、プラトンやアリストテレスに大きな影響を与えたまさに哲学の祖でした。ソクラテスは、アテナイ中の知者といわれる人々を訪ね歩いては、議論を行い、知者をもって自認し満足している人々の知識が、実は思い込みや偏見、不確かな根拠に基づく独断であることを明らかにすることで、なにが本当に正しいことか、確かなことはなにかを追及し続けました。そのようないわば人々の虚名を剥ぐことを続けるソクラテスは、権力者の恨みや嫉妬を買うことになります。ソクラテスは、「神を冒涜し青年を堕落させた罪」によりアテナイ市民により告発され、刑事裁判にかけられました。
プラトンはこの裁判を弟子として見聞きしており、「ソクラテスの弁明」を著作として残しています(ソクラテス自身は1冊も本を残していませんが、私たちはプラトンの著作を通じてソクラテスを知ることができます)。当時のアテナイの裁判は、501名の市民からなる裁判員による、古代の「裁判員裁判」でした。
ソクラテスは、市民に対して、自分の行為について弁明を行いますが、僅差で有罪の判決を受けます。
ソクラテスは、有罪の判決を下された後に、量刑に関する弁明を行います。古代アテナイの裁判では有罪無罪の評決と量刑の評決が分離されていました。
ソクラテスは、「私はアテナイに悪い影響を与えたとは思っていない、むしろアテナイは私に公会堂での食事(アテナイでは名誉顕彰として公会堂での食事を与えるという習慣があった)を与えるべきだ」と言い放ち、裁判員はどよめきの声をあげます。これによって、ソクラテスは、彼に同情的であった裁判員(無罪票を投じた裁判員)からも反発を買い、死刑判決を受けることになります。ここでソクラテスが、反省したふりをし、国外追放の刑を希望すれば、死刑判決を免れることは可能であったといわれています。しかし、ソクラテスは、そのような道を選択することなく、あえて最後まで自己の正しさを主張し続け、不当な判決に屈して命を長らえても仕方ない、と弟子たちにつぶやくのでした。
ソクラテスは、裁判には完敗したといえます。そして、この裁判が誤判であったことは明らかです。しかし、彼が闘っていたのは裁判ではなく、彼の哲学そのものでした。ソクラテスは、弟子のプラトンの著作を通じて2500年後にも世界中の人たちに尊敬され、名だたる哲学者に影響を与え続けています。ソクラテスは、アテナイの裁判に負けて、歴史の審判に勝ったのでした。
余談になりますが、プラトンは、誤判でソクラテスを殺した民衆に失望し、民主政に疑問を抱くようになります。後にこの点は、「国家」という著作で「哲人王」の構想に行き着きます。英国首相チャーチルが「民主主義はろくでもないが、これよりましな政治体制がいまのところ見つからない」と述べたとおり、民主主義か、知恵あるものの独裁か、プラトンの問いは、ナチスドイツやスターリンの蛮行を知ってしまった現代の人類に投げかけられた難問としていまだに残ったままです。