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最後の海軍大将~井上成美… 2015年8月

先日、小説家・阿川弘之さんの訃報に接しました。
阿川さんの代表作はいわゆる昭和海軍提督三部作といわれる「山本五十六」「米内光政」「井上成美」ですが、今日は、その中で一番地味な(?)井上成美大将について書いてみたいと思います。

  井上成美(いのうえ・しげよし)は、「最後の海軍大将」として知られる大日本帝国の海軍軍人です。井上は、海軍兵学校を席次2番で卒業し、英・独・仏語を操る文字通り海軍の中枢を担うトップエリートでしたが、合理主義・リベラリズム(井上は、戦後のインタビューで「ラディカル・リベラリスト」であったと述べています。)を重んじ、無謀な戦争に突き進む陸軍や海軍内部の勢力を必死で押しとどめようとしました。井上は、自分が正しいと判断したことには、たとえ上司であっても歯に衣着せず意見を述べ、陸軍からの圧力をはねつける硬骨漢でした。謹厳で清廉な性格の井上は、上司や部下からも煙たがられ、「頭は抜群に切れるけど、おもしろみのない人だ」との評価が一般でした。
 日本では、このような人は、周囲に足を引っ張られ引きずり下ろされるのがオチですが、井上の実力は群を抜いていたため、次々に重要なポストを任されます。当時の海軍には、このような人物を許容するだけの度量があったともいえます。

 井上は、米内や山本らの先輩と協同し、右傾化する日本に危機感を抱き、日独伊三国同盟に文字通り命を賭して反対し、対米開戦に反対しつづけました(当時は、海軍の高官であってもドイツとの同盟や対米開戦に反対することには、現実的に暗殺の危険がついてまわったのです。)。
 結局、それらの努力はむなしく、日本は米国との戦争に突入しますが、井上は江田島海軍兵学校の校長として、敗戦を見据え、すでに敗戦後の日本の復興を担う人材を育成しようと努力します。戦争中に、「敵性語」である英語教育を中止すべしとの動きが固まってくる中、井上は断固として英語教育を続けさせます。
 井上にいわせれば、「米英と戦争中であるからといって、外国語教育とはなんの関係もなく、世界の共通語たる英語すら解しない低レベルの人材など海軍には不要である」という合理主義が当たり前のことでした。しかしながら、当時このような正論を述べる者は「非国民」として面罵される時代、大変勇気の要ることでした。

 井上が兵学校校長に就任した際にまず行ったことは、学校に掲げられている歴代海軍大将の写真を外させることでした。井上曰く「その大部分の人は長い間海軍に御奉公した人たちで、その功績は大きい。しかし、中には、先が見えなくて日本を対米戦争に突入させてしまった、「国賊」と呼びたいような人もいる。こんな人たちを生徒に尊敬せよ、とは私には到底言えない」「大将に出世したいなどというくだらない出世主義を若者に肯定することはすべきでない」。井上は、この後、自らが大将になることも拒み続けますが、上司の米内の政治判断により無理矢理大将に進級させられます。そして、井上は最後の海軍大将として、敗戦を迎えました。
 
  井上は、敗戦後、敗戦の責任を引き受けるかのようにひっそりと生活し、その生活は困窮していましたが、海軍時代の後輩からの援助も拒み続けました。希望すれば、大企業の顧問として不自由ない生活を営むこともできたはずの井上は、貧窮生活を送りながらも私塾を開き、子どもらに無料同然の授業料で英語を教えることを生きがいとしました。海軍時代の後輩が、生活苦で苦しそうな井上の様子を見かね、もっと授業料をとるべきだとアドバイスしても、「このあたりの人はみんな貧しいのだ。軍隊が起こした戦争で苦しい生活を強いられている人たちもいる。私は、授業料の値上げなどするつもりは絶対にない」とはねつけたそうです。海軍大将まで上り詰めた井上の自宅からは、家財道具は次々に売り払われ、消えていきました。
 
 私は、司法試験の受験生の時に、はじめて阿川さんの本で井上成美のことを知ったとき、「軍人の中にもこのような人がいたのだ」と大変嬉しく、勇気づけられ、興奮したことを覚えています。「山本五十六や井上成美が現役で働いていたころにもし自分が生まれていたら、海軍に入って、そのもとで働いてみたかった」とまで考えました(今でもそう思っています。)。
 曖昧な「空気」に流されないこと、権力を握る者としての責任を全うすること、慢心せず常に勉強し続けること、自分が正しいと判断したことは上司や権力者が相手であっても決して曲げないこと、肩書きや出世主義にとらわれないこと、山本五十六のような派手さはないものの、井上成美大将は私のもっとも尊敬する「ヒーロー」の一人です。

(文責:一由)

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