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秋の夜長に素敵な小説を

~ヘミングウェイ「二つの心臓の大きな川」

 暑い夏も終わりいよいよ秋ということで、秋の夜長にお勧めの小説をご紹介したいと思います。
 ヘミングウェイ「二つの心臓の大きな川」(原題:Big Two-Hearted River)は、1925年に出版されたヘミングウェイの短編集「われらの時代」に収録された短編です。

 あらすじはというと、「ニック」という青年がどこかから町に帰ってきて、そこで、鱒釣りをするというだけの話です。ニック以外に具体的な登場人物はなく、なんの劇的な事件もドラマも起こりません。
 ニックは、帰還した町から鱒の住む川に向い、川べりの森で粗末なキャンプを張り、食事をとってコーヒーを飲み、眠ります。そしてニックは、翌朝、鱒釣りの餌のバッタをつかまえ、鱒を釣りあげます。
  たったこれだけの出来事が、ヘミングウェイの筆にかかると、ため息の出るような生き生きとした文章となり、森のにおいやコーヒーの香り、鱒の飛び跳ねるような躍動感をまざまざと感じることができます。
 
 この小説は一見なんの変哲もない情景を描いた牧歌的な小説に見えますが、この小説の主題は実は「戦争」です。ヘミングウェイ自身の言葉でいえば、「この物語のテーマは「戦争からの帰還」だが、戦争への言及はどこにもない」ということです。ヘミングウェイはこのような、主題を直接的に語らずに、情景を描くことで主題を暗示し、浮かび上がらせる手法を得意としていたといわれていますが、この小説は、ヘミングウェイのそのような短編小説の中でも屈指の傑作だと思います。

 そういった視点でこの小説を読むと、最初読んだ時ののどかな印象とはまったく違う、悲しく、やり場のないニックの気持ちが、行間から浮かび上がってきます。ただの物語としてではなく、読み手によってさまざまな受け取り方の余地を残すものとして磨き上げられたこの小説は、一年に一度くらいの間隔で何度も読みたくなる不思議な小説です。 
 ぜひ、秋の夜長に味わって読んでいただきたい素敵な小説です。

 「二つの心臓の大きな川」は、新潮文庫の「ヘミングウェイ全短編1」に収録されています。新潮文庫には、ヘミングウェイがこの小説を書いていたパリ時代の思い出話をまとめた「移動祝祭日」もありますので、そちらも大変お勧めです。

(文責:一由)